SEO会社を退職して、地元福島にUターンした理由。

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初のブログということなので、知識もセンスは横に置いといて書いていきたいと思う。そもそも自分で自分のことを書くということが初体験で、正直少しワクワクしている笑

 

自分のことを語るということがないので、どんな風になってくのか(特に語り口調がどんな風になるのか自分でも興味あり)わからないけど、ちょこちょこ書いていけたらいいななんていう風に思ってます。

 

さて、まずは振り返りからいきたいと思う。

 

大学(ごく平均的な学力)を卒業し、すぐにSEO会社に入社した。SEO会社と言ってもリスティングやアフィリエイトも取り扱っている、中堅のWebの総合広告代理店だった。

 

新卒として入社し、名刺交換の仕方からお辞儀の角度まで、ベンチャーとしては珍しいくらいにきちんと新人研修をしてもらった。

 

販売していくことになる商材についても、部長クラスが直々に時間を割いて教えてくれた。その時は気づかないものだが、とにかく今思えばいい会社に入社できたと思う。

いまでもそこで学ばせてもらった知識や経験は、自分の中で大切にしているし今でも活用できるような経験ばかりだった。

 

同期にも恵まれた。意地悪なやつ、抜け駆けしようとするやつ、いじめなんかは皆無で、よくみんなで飲みに行ったし、旅行にも行くほどだった。

 

その後ほとんどが退職し転職することになるのだが、会社を離れた後も何かと連絡を取り合ったり、仲良くさせてもらっている。

(こんなことを書いていると、ナゼ辞めたのかという話にもなるが、それは後から書いていく)

 

一人前までの道

研修を終えると、実際に電話をかけてアポをとることになるのだが、これが大変だった。毎日100件をリストアップし、次々に電話をかけていく。 

 

「こんにちは!私◯◯の××と申しますが、広報担当の方はいらっしゃいますでしょうか?」

この言葉を一体何回言ったかわからない。

 

ピンときた方もいるかもしれないが、とにかく首都圏で自社のサイトをもっている企業の受付の方は、耳にタコができるほどこんな営業電話を受けていることだろうと思う。(あの時はうんざりさせてすみません。。)

 

だいたいの受付の方はこんな風に連絡が来ると、「現在担当は外出しております」か「弊社では現在広告は必要ないとのことで遠慮させていただいております」という答えが返ってくる。

 

それならまだいいほうだ。

 

「迷惑だから二度とかけてくんなよ!」や「そんな広告に金かけていられるほど余裕ないんだよ!」という、愛のある(?)お叱りをいただくことも少なくなかった。

 

そんなこんなで大変な日々がありながらも、なんとかアポが取れ初の提案に行かせてもらえることになった。

 

しかし、、契約が取れない。

同期10人ほどの中で、契約が取れたのは自分が最後だった。

 

もちろん先輩社員に同行してもらえるのだが、なぜか契約が取れない。

 

アポをとった企業の見込み度が低いのか、電話のかけ先の制度が悪いのか、それとも自分の正確なのか。この時期は初めて悩んだ時期だった。(と言っても最初からスムーズにいくことのほうが難しいとは思うが)

 

その後も先輩に叱咤激励を受け、同僚とは慰めの酒をご馳走になり、最終的には部長の力を借りてなんとか初契約をいただくことができた。

 

本当に嬉しかったし、会社に貢献できたという喜びもあった。しかし一番は、受注した時に隣にいてくれた部長や先輩社員、同期の笑顔が心から嬉しいと思った。

 

先輩からは「おめでとう!でも営業はバックオフィスの人たちの給料も稼いでこないといけない。それに自分を雇うために様々な経費がかかってくる。営業は最低でも自分の給料の三倍は契約を取ってこないと、赤字なんだからな。これからもっと頑張らないとだめだぞ。」なんていう言葉をいただいたりした。

 

入社後初受注。

 

自分はもっともっと努力しなければ!とやる気にあふれた時期だった。

 

日々成長

その後日々の忙しさのおかげであっという間に時が過ぎ、なんとか自分の給料の3倍は契約が取れるようになった。

 

少しずつ余裕も出てきて、販売できる商材も増えていった。

 

まあとにかく出る出る。新商品。

解析ツールやら新しい広告配信手法、毎月のように新しい商品が出てきてそれを覚えるのが大変だったなあ。

 

そして特にSEO

同業の方ならきっとわかると思うが、SEOを売っていくことは非常に厳しい。なぜなら

 

  • テレアポ毎日100件は当たり前。
  • そもそも全てはGoogle様次第なので売れたとしても順位が上がる保証はゼロ。
  • 売った顧客のサイトが検索順位から消える可能性すらある。
  • 順位が下がった時の顧客の怒り具合は絶望的。
  • 売らなければ会社から、売ったとしても顧客から怒られる。

 

てなことがあるから。

 

しかし後輩や中途社員がどんどんと入社する中で、自分に課せられる期待値も少しづつ上がっていき、それも嬉しいと思えていた。

 

じゃあなぜ退職したのか

単純に自分がパンクしそうになったから。(実際パンクした)というのが理由だ

 

結果的に、入社してから5年くらい働かせてもらっていた。別に売れない営業マンってわけでも無く、同時にものすごく売れっ子の営業マンというわけでもなかった。

 

ブラック企業にいるような理不尽な上司もいないし、同僚も他部署の人もとにかくいい人ばかりだった。だからこそ、さっき言ったようなきついことがあってもなんとかやれてたのかもしれない。(こんなんできついなんて言ってたら甘い、と言われそうだがそのほかにも並行して、自分の夢を追いかけてもいた。それが後々重荷になることになるのだが。。)

 

自分の中での葛藤

SEOサービスっていうのは結局、「あなたのサイトをよく検索されるワードで上位に表示しますよ」ってことだ。

 

でも順位を決めるのは誰か。そう、Googleである。

 

だから上位に表示されるかどうかは実際のところ自分たちにもわからない。だからサービスを勧める時にはきちんとそのことを説明した上で、受注しなければならない。

 

そうしないと絶対に「お前順位上がるって言ったじゃねえか!詐欺だ!詐欺師だ!!」と、理不尽に怒られることになる。

 

しかもほとんどのSEO会社では、半年から1年間契約が切れないような契約書になってる。つまりは、順位が上がろうが下がろうが、その期間はお金をいただきますよ、ということだ。

 

もちろん順位が上がることもあれば、全く上がらない場合だってある。しかし営業マンは順位が全く上がっていなくとも、その顧客とやりとりをし続けなければならない。

 

そこが、、、きつい。

 

しかもそんな顧客を何十件も抱えていると、毎回毎回本気で怒られ心が折れてくる。

 

 

取れば取るほどきつい契約

そのほかにも問題はある。単純にSEOだけであればなんとかやれるかもしれない。しかしリスティングやサイトの解析サービスなんか受注した日にはさらに拍車がかかる。

 

リスティングは運用型の広告のため、基本的には運用担当がその顧客ごとのアカウントを管理し、成果をより多く獲得しようと日々奮闘している。

 

しかし中堅のWeb広告代理店ともなれば、営業マンは数十人になる。となればどんどんリスティングのアカウントは増え、最終的にはリソース不足。つまりアカウントに対して運用担当者の人数が少なくなることがほとんどだ。

 

しかし受注したからにはアカウントを運用していかなければならない。

 

どうするのか。

 

そう、営業マンが運用を行うのである。

 

日々新規顧客の獲得のため、受注のために多くの時間を割いている営業マン。多くの時間は提案書の作成やテレアポ、追加提案の作成に費やされる。

 

さらに顧客の元へ移動したり、フォローも欠かすことはできない。そんな中でアカウントを運用・改善を進めねばならないのである。

 

当然業務時間は膨大なものとなり、終電間近で帰る人がかなり多かった。

 

ノルマがあるから取らねばならない。しかし取れば取るほど大変になるもの。それが契約であったのである。

 

終わりの始まり

新卒で入社をし、多くの上司と同僚がいた。

 

会社の業績が悪化した時は、皆一丸となり目標を達成し勝利の美酒に酔いしれた。

 

初契約を喜んでくれた上司がいて、同じ悩みを共有した同僚がいた。この仕事はきついなあと毎日思いながらも、同時に本当にこの同僚、上司でよかったなと思っていた。

 

しかし2年、3年と時が経つにつれ、その仲間たちも一人また一人と自分の新たなステージに向かって歩みを進めていった。

 

同業種へ転職するもの、全くの異業種に挑戦するもの、新しく会社を立ち上げた人もいた。

 

少しづつ、「自分がしたいことは何だろう。」、「何が自分はしたいんだろう」と思うようになり始めた。

 

同期の存在

同期がいた。だいたい10人ほどだったと思う。みんな仲がよく、今でも交流は続いている。

 

一人、また一人とその同期たちが退職をし、転職をしていった。

 

最後に残った同僚がいた。そいつはとにかく仕事ができて、どんどん会社の中でも存在感を高めていった。(実際に自分よりも昇格していた笑)

 

何気なく仕事の話をすると、「メールのテンプレート化」、「即レスの徹底」、「タイピングの高速化」、「顧客の詳細なリスト化」等、いかにもビジネス本の中に詰め込まれているような仕事の仕方を実践し、成果をあげていた。

 

 

 

同期に対する気持ち

不思議と、嫉妬はしなかった。当然である。

それは彼の努力の結晶であり、彼のビジネスセンスがその結果をもたらしていたのが近くで見ていてよくわかっていたから。

 

自分はその同期のことを尊敬していた。たまに二人で飲みに行くことがあったのだが、その度に彼は彼なりのしっかりとしたビジョンをもって、自分の進むべき道を進んでいるなと感じた。

 

そして、なんというのか。。。この仕事に向いているなあと感じた。というかこのWeb広告業界の仕事を楽しんでいるなとも感じた。

 

自分はなんのビジョンも夢もなく、この仕事を続ける限りこの同期には一生勝てない。この仕事に対するモチベーションが全く違うからだ。会社の中でどんどん昇格していくその同期と飲みに行き、いろんな話をする度にどこかでそんな風に思っていた。

 

自分の夢が崩れ去った

話は少しそれるが、自分は大学1年の頃ぐらいから、歌とダンスに本気で取り組んでおり、オーディションにも受かったりということもあり、どちらかというとこの会社ではフワフワした気持ちで、日々の業務に追われていた。

 

(歌とダンスの話はまた別の記事で書きたいなあ。。。書けるかな?)

 

仕事を夜11から12時ごろまで毎日行い、電車で40分かけて自宅の駅まで帰り、それからカラオケや自分の家で発声・歌唱練習。眠りにつく頃には深夜の2時や3時なんてことがザラだった。

 

また時には仕事の合間にライブのための歌詞を覚えたり、営業先に行くふりをして有名なボイストレーナーのレッスンを受けに行ったり(今でもこればれたら怒られるな。。笑)、深夜にダンス練習に出かけ夜通し練習をして始発で家に帰り、そのまま会社に行ったりしていた。

 

ちなみに自分は国内というよりも洋楽に興味があり、Justin TimberlakeUsherのような(古い?)歌いながら踊れるアーティストを目指していた。

 

 

今思えば、この頃から自分の心が悲鳴をあげ始めていた。その時は、自分の夢のために純粋に、日々頑張っていたと思う。だからこそ、その心の声に気づかないふりをしていたのかもしれない。

 

それが取り返しのつかないことになるとは、全く気づいていなかった。

 

だんだんと、日々の仕事が忙しすぎて歌とダンスの方に時間を割くことが難しくなってきた。

 

 どんどん、頭が回らなくなってきていた。ぼーっとすることが増えてきていた。

 

結局オーディションには受かったものの、レコーディングしていた曲もユニットを組んでデビューするという話もあったのだが形にならず、いつのまにか自分の夢を諦めてしまうことになった。(まあどんなに忙しくても形にする人はいるもので、結局は自分の力不足だったのかとも思うが。)

 

今思えば夢を諦めて時間に余裕ができたことで、結果的に自分の仕事に集中することができ契約がたくさん取れたので良かったと思う。

 

。。なんてうまい話はなく、自分の仕事はより一層フワフワとしたものになり、簡単なミスを頻発させてしまうようになった。

 

この頃から、本格的に「自分がやりたいこと」という、答えのない問いに悩み始めることになる。

 

ニューヨーク

ニューヨークが好きだった。というか今でも好きだ。

 

世界の流行発信地であることは世界中の人が認めるところだし、大学時代にブレイクダンス(頭や背中でぐるぐる回るやつ)やグラフィティ(駅とか壁とかに書いてあるスプレーの落書き)にはまっていたこともあり、在職中もGWと合わせて休暇を取り、一人で1週間ほど遊びに行ったこともあった。

 

退社を考える頃には少々の貯金もあったので、「会社辞めたら一回ニューヨークに行こう。」「ニューヨークなら何か見つかるかもしれない」という、中学生のような短絡的思考のもと、部長に退職の意思を伝えた。

 

ありがたいことに、部長には引き止めのお言葉をいただいた。というか、部長の友人に自分と同じ行動をした人物がいたらしく、「結局そいつは海外から帰ってきても何も見つけられずに、今でもぶらぶらしてるぞ」「後悔しないのか」という趣旨のお言葉をいただいた。

 

今思うとたいして目標もなく海外に行ったところで、何も見つかるはずもないことはわかりそうなものだが、あの頃の自分は思考能力が低下しておりそんなこともわからなかった。

 

最終的に、退職させてもらった。

 

海外での生活。

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有給休暇を消化し、その間に準備をし、いよいよニューヨークへ旅たつことになった。目的はただ一つ。『自分が何をしたいのかを探す旅』だった。

 

2か月間、アメリカを点々としていた。

 

実際にどんな旅になったのかはまた別の機会に書きたいと思うが、、結果的には大した成果もなく帰国することになった。笑

 

(かなりはしょったが、ニューヨークはじめアリゾナなどいろんなところに行っていろんな人に出会った。書き始めるとこれまた長くなりそうなので、そしてそれはそれで今思えば楽しい時間だったので、そこら辺は改めて書きたいと思う)

 

燃え尽き症候群になる。

日本に帰ってきた。自分は何をしたいのか、結局見つからなかった。

 

転職しなきゃなあ。でもまあ同業種ならきっとすぐ働き口も見つかるし、給料も変わらないくらいもらえるだろ、なんて思っていた。

 

でも動かなかった。というよりも、なぜか動くことができなかった。

 

朝から終電まで働き続ける多忙な日々の中、並行して自分の夢を叶えようと努力し続けていた自分のエネルギーゲージには、警告ランプが付いていた。

 

空っぽになっていた。

 

失業手当はもらっていたので、即生活に困窮するということはなかったが、朝起きたらテレビをつけ、タバコに火をつけては消し、腹が減ればコンビニで食料を買い込み、眠くなればただ眠った。

 

この頃の記憶は、正直あまりない。

 

実はこの時弟と一緒に住んでいたのだが、あまりに自分が笑わないし何もする気がないという状態を見て、地元にいる母親に「兄貴死ぬかもしれない。自殺しそうな気がする」と、電話を何度もかけていたそうだ笑

 

記憶がないが、とにかくぼーっとしていた。

 

実際に死んでしまったところで、自分にはもうしたいこともなければ後悔すらない。なんか雪山に入っていけば、眠るように死ねるって聞いたけどあれって本当なのかな?

 

そんなことを毎日考えていたことだけは、覚えている。

 

そんなこんなで一年はあっという間に過ぎていった。

 

地元での療養

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弟からの「兄貴がやばい」コールを受け、母ちゃんが自分に「地元へ遊びに戻ってきたら?」と連絡をくれた。

 

全てに対して無気力になっていた自分が、どのように地元に帰っていたのかすら、今では思い出せないが、自分の中の防衛本能が働いていたのか徐々に地元に帰る回数が増えていった。

 

福島の駅に着くたび、都会では見えない大きく開かれた空が出迎えてくれた。

 

 福島は、正直何もない。ZARAもなければ東急ハンズもない。ハイセンスなバーもなければ大好きなクリスピークリームドーナッツもない。

 

でも、そもそもしたいこともわからず、動き出すためのエネルギーがゼロだった自分には、そんな環境がむしろ心地よかった。

 

少し車を走らせればすぐに山に行けるし、満員電車に乗らなくとも、車の中では一人で好きな歌を大声で歌うことだってできた。

 

空気もよかった。都会の排気ガスまみれの空気や、終電間際の脂臭いような親父臭いような嫌な空気ではなく、とにかくさわやかだった。山から吹いてくる風は常に新鮮な空気を運んでくれた。その空気からは、緑の臭いを感じることができた。

 

少しづつ、エネルギーが溜まり始めてきていることに気づいた。そして何かをしてみようと思うようになった。

 

インパクトドライバーとの出会い

親父は日曜大工が大好きだ。今でもちょくちょく木で棚を作ったりしている。

 

自分がふわふわしてる時期にも、何かを作ろうとしていた。「やってみろ」と、不意に父から工具を手渡された。それが、インパクトドライバーだった。

 

インパクトドライバーとは、これである。

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まあ簡単に言えば『電動ネジ締め機』のことで、引き金を引けばギュイーンという音とともにネジが最も簡単に締められる。 最近ではテレビでもよく芸能人がこのインパクトドライバーで簡単そうにネジを締めている。

 

「へえーおもしろそうだな」と思い、実際に手にしてやってみると想像よりも難しいことに気がつく。 とにかく最初にネジを打ち込む時にネジがグラグラと安定しないのだ。

 

「あれ?」「テレビじゃあんなに簡単そうに見えたのに。。。」なんどやってみても綺麗に綺麗にネジが締めれない。

 

「こうやんだよ」と、父がインパクトドライバーを手に取り一息でネジを締めていく。そのあまりの手際の良さに、見とれてしまうほどであった。

 

ーなんか書くのが少し疲れたので、後半へ続くー